このサイトは館山市の、とある塾の塾長が
小学生&中学生の親御さんたちへ
専門家の目線から家庭学習や教育について
アドバイスを発信しているブログですが、今回は脱線話です
『平安時代の貴族にとっては知識が武器だった』
平安時代は、 『女性にとって教育は「情緒的なもの」』として捉えられていました
要するに自分を美しくみせるためのツールとして「教育」が利用されていたのです
容姿はもちろんですが(それだけでは不十分で)それ以上に音楽や色彩、香のセンスをはじめ、昔の和歌や物語りについての知識などが教育されていきました
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平安時代初期以降は身分の高い役職へと嫁ぐような女性に教養が備わっていないということは恥であると考えられていたので、后、女徒、更衣などの身分になる女性はもちろん
それよりも下の身分である貴族女性でも女官として出世するべく教養をこぞってつけていきました(つけさせられていました)
一方で当時の中流階級以上の男性は全員宮仕えになるのですが「氏」が必須で、
要するに、いくら頑張って出世したところで自家の家格を超えるってことはまずありませんでした
しかし女子は門閥によらずに「才色兼備であれば」婚姻によって権門に入って高貴の身となることができたのです
要するに中流貴族の娘が権勢家の妻や母となることもできました、そして本当に臣下(藤原氏)の娘が皇妃や国母となっていきましたよね
たとえば私が最近(兼家マジでどーしようもねえ!と思いながら)読み返している「蜻蛉日記」著者の道綱母。
の父の藤原倫寧は受領の家柄ですが、陸奥守、河内守、丹波守、伊勢守、などを歴任していきます、これは兼家と娘との結婚が恩恵をもたらせたことは明らかで娘の結婚が父や兄弟など、家全てを引き上げてます
そういった背景があったから当時の中流階級以上の女性には家をあげて教育を施していきました
このような理由から当時の女性たちは高い教養を持っていたのですが、そこに紀貫之が平仮名で日記を書いたことが大きな影響を与えていきます
ようするに当時の日記とは人に読んでもらうことを前提にして書かれているのですが(現在のSNSとよくにてませんか)、今まで公式な場面で使われていた漢文と違い平仮名は繊細な表現ができますよね、つまり、今まで和歌や手紙などでしか自分を表すことができなかった女性たちが表現豊かな平仮名の登場によって、文才を十分に発揮できるようになり、さらに政治介入したい有力男性貴族たちが女房を利用して自分の娘の評判をあげようとしたことも女流作家が増加した要因となっています
仕事で忙しい男性よりも家庭で過ごす時間が多かった女性の方が制作に時間を割くことができたっていうのももちろんですが和歌や手紙といった個人宛のものよりも「公開的なもので自己表現をしたい」というこの風潮が女性には好都合だったため男性よりも女性の作家が目立っていったのではないでしょうか
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